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圧倒と終焉



神様がおりられると
ようやく、
ゆがんだ宗教や
スピリチュアル界隈などで
云われてきた神様が
掌にあるような方々で
それで、神様というものが
どれほど巨大で
ひとのてにはいらないものなのか、が
わかるのだとおもう

悪意のがわの方々は
いまだに神様を、しらないので
たくさんのことを
しようとしたり
宣ったりしているけれど

思考で把握したり
かわしたり、できるものは
神様ではなくて
人サイズにあるもので

つまり、計画とか
あるいは、知識とかいうのは
なにがしかであっても
それは掌のサイズにすぎない

悪意の終焉は
かれらがたててきた計画や流れを
なにもかも無駄にしながら
おとずれる

……

歓迎したものは
歓迎をあたえられるという
スピリチュアルや
霊能者、ゆがんだ宗教者で
このときにおとずれたものたちを
「歓迎」を「できた」ひとは
わずかだった

かれらが最後に味わうのは
境遇の二極化で

真心か、魔心

ひとつは神様とともに歩み始め
ひとつはエゴ、ナルシシズム(欲)
あるいは、偽りの神もどきをしんじ
真なる神様への否認とともに
はしりはじめる

……

最後にあらわれる獣の姿は
そのものの目が決めるという

たとえば
ナルシシズムだとか
エゴイストだとか
「真なるもの」を見て
そう観たてたものたちには
そういう獣があらわれる

いつわり、まもの、
だまされ、
そう見立てたひとたちには
そういうものが……

……

真なるものたちに
無垢、あるいは
観音をみたひとは
最後にあらわれる獣が
無垢なる観音となるらしい

不思議なことだ

2018-09-26 13:32:33
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目線



文章や、なにかをあらわすとき
誰かに観られること
誰かに、何かを思われることを
望んでいる「もの」はおおいし
望んでいるから、ひっぱられて
ほんとうの表現からはなれているものも多い

その時代が終わるようだ

これからは
誰かに、なにかを、おもわれること
いうなれば
「他人からの目線」への欲求が
わかなくなり
誰しもから、それが減っていくだろう

他人からもたらされるものは
大きいなぁと思うけれど
それをもとめるほど
欲っしても手に入らない
結局は地道な
自己研磨に
そうしたことが
与えられるんだと思う

エネルギーのはなし

求めるものは
自分のもつ器に
あたえられる

上辺ではだめで
自分の、
素体のちから(素のもの)を
たかめ、あげていくしかない

……

人間がもともとの人間体にもどっていく
「欲」……意識の上のかるいものから
苛立ちをわかせる重いものまで
「穢れ」からたちのぼっていたそれが
おわり、ついえていく
2018-09-13 14:32:19
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いろんな人が生きている世界



自分のあたまのなかの
おもいや、かんがえからの
他人しか居ないとき
こうすればいい
ああすればいい
ばかり

結局、自分がすればいいことを
他人に思い浮かべる

いろんな人がいきていて
いろんなことをしていて
いろんな生活があり
価値観があって

喧嘩ひとつとっても
自分がおもうようなことでは
ないことが多い

いろんな人がいきて
いろんな問題を
ひとりひとり解決して
あるいは、つきあいながら
生活してるんだ、と

世界がひろがったとき

私は、わたしの生き方でいいんだし
私の生活を
きちんとすればいいんだと
わかる

いろんな生き方やひとがいることを
頭じゃなくて
たましいが、わかったとき
もしかしたら、
いろんな生き方をしていいんだって
自分にも
許すことができるのかもしれない

多様性は、個人を認めることなんだろう

だれも他人の価値観のうえにはないし
価値観のなかでみつもれば
他人はみえないものだとおもう

感覚で「多様」ということと
「多様のひとり」ということが
ひらけたとき

「個人感覚」の
裁きあいは、
かわるかもしれない

(許しとは少し違う)

そういうもんだと
腑に落ちる感じか
2018-09-05 12:43:38
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関係ないところで世界がまわり、ながれ、うごいている



頭が壊れて
一年か二年ほど
なにも出来ず、動けずにいたころ
携帯を片手にとりだして
ネットを散歩するのが日課だった

ネットでなにかを言う(書く)のにも
それ向きのパワーがいる
その時の私には、それすら立ち上がらなかった
もともと言葉はひどくやりづらい

絵を描いて、寝て、ネットをみて
その繰り返しだった

その時つくづく思ったのが
世界は私には関係ないこと、だ
訳の分からない話かもしれないが
世界にたいして
なにもできない(表現ができない)
ただ
なにも思わず、なにせず
傍観しつづけていると
感じられるかもしれない

有る意味、なにかをつたえたり
なにかを表現したりは
世界と関係することだから
なにかをしているひとは
どこかで、「世界と私は関係している」
かのような錯覚を
もっているんじゃないかな、と思う

誰でもとは限らないが……
ある種の、弱い強いはあっても……

でも実際はたぶん、
世界はひとりひとりには
あまり関係がないんだと思う
それは自分ごとではない
ヨソゴトのあつまりだ

……

その中で覚えたのが
一種の異様な寂しさと
忘失に似たものだった

関係しようとしなければ
関係など、ずっと
ないままなんだ……

人間関係があることは
(たぶんにトラブルや
煩わしさもあるかもしれないけれど)
人間関係が「ない」ところから見れば
ずいぶん。富んで恵まれていることだ

……

その寂しさと忘失のまま
なにも出来ないので
結局は携帯をまた観ることになる

頭が壊れた、と、書いたが
もうすこしいえば
頭の損傷に近かったのかもしれない

思考、行動するための思考がうごかない
損傷した手足がうごかないように
なにも動かなかった

……

忘失からみていた世界は
私に関係なくすすみ
私に関係なくながれ、
たくさんのひとが
「他人のことにとやかく言う」を繰り返し
「自分のことをとやかく出す」を繰り返し
さまざまを織りなして
流れ続けていた

「停滞している」ことは
ひとつもなかった
一人一人からすれば
色々停滞があるように見えただろうが
先に、先に、と
すべては進んでいたし
そのため、いまは、
前とは違う。すべてが

私は岩のように停滞していた
だから、じわじわとでも
ほかの人たちが
先に進んでいたのがみえた

……

そのとき、ふと
世界が全く関係ないことは
ずいぶん、助かるなぁと思った

まえも、どこかで、かいたが

私が苦しんで泣いているとき
悩んで落ちているとき
どこかで笑って幸せな人がいることは
幸福なことだ

この世が、苦しみの一色ではない
ひかりはあちらだと、
わかるから

世界が関係ない、って
どんなに私が個人の闇におちても
よろこびのひとや
進む人がいるということだ

ひとは見つめているほうに
意志を持ってすすんでる

幸福が、遠くにでも
みてとれることは
幸いだ

……今も私は
世界とは、わりと距離をおいて
自分のことをしている
あの時、感じたことは
文章にすると
上のような短文になるが
ずいぶん、ためになった

私は、私が不幸なとき
そうしたことと関係のない世界があることが、
幸せだった

ひとが幸福で
楽しんでいたことが
救いになった

何かの役にたちたければ
それだけでいいんだと思う
2018-08-14 11:57:15
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なぜ人のことをとやかく思ったり、言ったりするんだろう(他人への好奇心について)



ひさしぶりに自分の意見を綴ってみる
ずいぶん、スピリチュアルだの
なにかだの
そんな話ばかりだった

人は他人への好奇心を抱えている
人間が群生の生物である限り

(つまり個人よりも
群集であるほうが
人間は生きやすい)

その好奇心は
己や、己の群集への
防衛本能からきているんだと思う

他人のことを
とやかく言ったり
とやかく思ったりすることで
たくさんのことは動いている

「他人のことより自分のことをしろ」というのは
たぶん、生き方として
防衛本能を超えたところにあって
とても正しいんだけれど

「人のことをとやかく言ったり思ったりする」は
失ってしまったら
なんだか寂しいような気がする

それはたぶん
思いやりや優しさや
経験からくるシンパシー(共感)の
少し手前の「振動」なんだと
私は思う

他人に自分のことを
とやかくいわれたり思われたりする
それはとても煩わしい半分
いわば「整調作用」に似ているなぁとも思う

人間が群生生物であるかぎり
この「とやかく感情がうごく」
整調作用……関係の
バランスをととのえる動きは
なくならないと思う

群れ……

奇妙なはなしだけれど
「他人にたいしてとやかく思う」ひとは
わりあい、優しさや
ほんとうの協調性が育っていく気がする

「攻撃的な批判」や「否定する気持ち」を
たやすくぶつける人は
その逆で……

つまり「他人のこと」など
おもっていなくて
「自分の概念」が律動していたりする

奇妙なはなし
「自分の概念の律動」を
他人を思うことや正義と誤解する方々は
(そうしたことがない方々は
いつも、それに不可解そうだけれど)
その律動を思いやりと思いこむので
「優しいことをしている」と
感覚が、そう認識していたりする

ほんとうに他人に優しいことって
他人ではないものの頭の中には
閃きがたいけどね……

他人のことを、とやかく思う人は
「ほんとうに、人に、優しいこと」を、
感覚が誤認しない

そうして、人間関係や
ひととの関わり方(心理の広さや能力)に
差がでている

たぶん、とやかく思うこと、は
ひとつの経験や「揉まれたこと」になって
人間のどこかに
沈殿していくからだろう……

とやかく思ったって
他人は他人で
自分の思いの上にいる訳じゃ
ない

自分の思いのうえの「他人」と
現実の「他人」の
はずれと、あたりの
いきかいで
もまれこまれて
成長するものが
あるんだろう

……

思いをあらわすまえに
とやかく思う、心の動きを
たまに、静かに味わいたくなる

それはたぶん
「他人が好きだ」と
そんなところから
わきたっている
2018-08-13 11:56:48
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