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祟りやつきもの、浄化や回復の大切さ



私の経験したことにすぎませんが
祟りやつきもののなかには
その方をまもるために
生じていることもあるようです

私も、
状況が酷いとき(いまもですが)は
氏神さまが祟りをもたらされます
(首から上に流れ出ます)

すこし込み入った事情があるので
私がそれをもたらされる理由を
詳らかには語れませんが

氏神さまからの祟りは
あたたかく、また
触りがでたとしても
懸命にすごしていると
やがて抜けだすことになります

いぜん、このことについて
お話いただいたのですが
状況が悪い(色んな事情でそうなります)とき
たとえば、ほかの悪霊や
よくないものにふれたり
かかわったりするより

『厄災』を神々さまがあたえることで
厄災をコントロール下において、
それを、ひとが
乗り切る(成長する)までみまもり
ほかの厄災からよけさせる、ことが
あるのだそうです

憑依もまれにそうしたことがあるそうです

……

ここ最近
見えない界隈は
ふかい混沌にすすんでおり
敵も味方も
神も、堕落したモノも
混在して乱発して
まるで嵐の海のようです

ひとつだけいえるのは
『どこまでも自分次第』だということです
人次第でも
護ってくれるもの次第でも
ありません……

お祓い、浄化、回復(治癒)は
ワンセットであることを
いぜん、のたまいました

みな、自然に無意識に
そうしたことを
行って居るものです

いわば、傷口の
よくない汚れをとるのが
お祓い
消毒するのが
お清め(浄化)
そして傷口を癒すのが
回復となります

もしも、なにか
日々において
くるしみがありましたら
ほんのすこしだけ
このことを気にとめてみてください

三つのバランスがととのい
回転をはじめると
『あなたを支えるあなた』が
元気(元の気)に満ちはじめ
『あなた』の
生命力が佳くなっていきます

まわりごとは
あなたの回転もかかわっていますから
どうぞ、よろしかったら
周りをみて
周りをかえようとするまえに
あなたのこころや、気の「回り」を
回復してみてください
2018-12-02 12:41:15
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詩や芸術



ほんらいの神のお心は
詩(うた)や
芸術にあらわれます
長い言を話してもたらすものは
神ではなくて
霊のほうに位置されます

(霊のほうの)
神とするなかには
かたりものと
にせものがあり
かたりもの、は
悪いものではありません

人と同じで
具現を、人との会話で
もたらすものも
たまにあり
それを『語るもの』といわれます

いずれにせよ
見えないもの、は
『かかわる人』により
様子をかえます

釈迦はひとにより
わかりやすく
伝え方をかえたといわれていますが

そのまんま、主とおわす神さまが
『神とのかかわり』で
あらわれること、を
人により、
その人が学びやすくなるよう
現象をかえられるのです

ですから
人にもたらされた真実『神実』は
ひとのもので
己にもたらされるものを
己の身をもって、知っていくことが
見えないこととの道のりになります

そこにあるのは知識ではありません
2018-11-26 07:46:42
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明王の討魔には冷気がながれ、癒やしは暖かい



外温と二、三度ことなり
冷ややかな空気が流れるところは
明王と魔がたたかっていたりします

天は
魔や、悪をほったらかしには
していません

明王は
滅殺力のお強い
神の使いでありますから
殺意(すざまじく冷える殺意)を
はなたれて、魔を討伐されます

たたかいの最中に
人が入られると
魔は人を盾にしたり
なかにもぐりこんで(いわゆる憑依)
逃げようとしたりしますから
明王の討魔の邪魔になります

『よくないものがいる』という
無意識への警告を
天はひとにもたらします

そういうふうですから
なんとなく、やだな、というところは
ちかづかないのが吉です
とくに昨今は

危うきに近づくのは
勇気ではなく、無謀ととらえ
避けられるほうが良いです

……

明王とご縁がある方は
無意識に明王によばれて
討魔のための祈りを
捧げていたりします

エネルギーはおのれにかえります

明王の討魔、殺気は
ひとには強烈な祓い清めをもたらし
よくないものが身体にあると
外に排出されたりします
(風邪や下痢に近い症状がでます)

たたかいの気は
そんなふうで
無害なのですが
肉体が疲労します

明王とご縁の深い方は
みえないところで
ラグナロクが起きている昨今
無意識にも
動かれていますし
それで、討魔の気をあびたり
はなったり、かえってきたものをあびたり
していますから

疲労をためないよう
ふだんより
すこしだけ心がけると
よいかもしれません
2018-11-20 12:07:26
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切り離し方



悪魔崇拝の魂たちが
とおざかるもう一つの世界にのり
こちらから離れていって居ますから
「奇妙な、悪人との縁」が
妙なかたちで清算されはじめるかもしれません

ご留意されてほしいのは
悪人とは「悪魔とシンクロのある悪意」であり
性格の悪さやいびつさ
自分にとって嫌いかどうかでは
ないと云うことでしょうか

たいてい、そうした方は
わからなくても
法律ぎりぎりでも
犯罪を犯しており
すでに魂は汚い泥のように化しています

……

奇妙な話ですが
いままで
世界は
光が強すぎもせず
闇が強すぎもせず
いわばグレイな世界でした

今後、こちらにあられる方は
光がまばゆく隣にある世界になりますから
逆にいえば
悪が目立つ、はっきりする
くっきりとその存在が悪だと認識できる
明瞭になる、そういうふうに
なっていきます

つまり灰色でぼやけていたのが
光のもと
その詳細まで
具体的にはっきり
見えてしまう感じですね

なんとなく、
悪意や、犯罪臭さを
感じていた「もの」たちの
すがた、本性が
明瞭な姿になり
わかってしまうでしょうから

わりと人間関係で
おびえたり、縁を必死にきろうとしたりが
出てきてしまうかもしれません

縁の切り方というか
切り離し方なのですが
「そのもの」が
脳裏に思い浮かぶ度に
お近くの神社のこと、か
神様のこと、
あるいは「かんじざいほさつ」を
思い浮かべて
思慮をシフトさせてみてください

姿は明瞭な輪郭をもっていきますが
世界が乖離しつづけているので
影響や、そのちからは
なくなりつづけていきます

ただ彼らは
見えない世界で
ひとにモノ(ケモノや念)をおくるのが
もう、常なる手段なので

思い浮かぶたび
ヒステリーな怒りにおちいらないよう
エネルギーシフトを
してしまうと
楽にそうしたものがはがれます

どうぞ、そうした苦しみがありましたら
されてみてください
2018-11-19 12:33:08
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普通に暮らすことの尊さ



これから、世界の混迷が
深みを増していくにつれて
どう生きればよいのか
どう生活すればよいのか
迷うことがあるかもしれません

普通とは
あなたにとっての「普通」ということです

まよったら
「普通にくらす」ことに
戻られてください

あるいは
普通にくらすことを
基準にしてください

幸せとか
不幸せとか
才能とか
富とか
波のまにまに
あらわれることに
目線をあわせないで

(幻想に似ているのです、
そうしたことは)

ただ、日常を
あなたが
暮らすことを
大切にされてください

混迷期は
おおくのことが
破綻したり
もりあがったりします

混迷混沌の
この時の波を、
もとめ、もまれるより

「あなた」が
あなたにとって
大切にしたいことを
大切にして
ただ、ふつうに
暮らすこと
きちんと生活をすることが
とてもよい結果をうむでしょう
2018-10-09 17:32:40
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ひと、ではなくて、



人を観るとき
ひとを、そのひとの所為とせず
ひとと周り(あるいはとりまくもの)を
「今」と観るとよいです

責任を求める人は
責任を個人的なものだと
誤認されがちですが

責任はどの場合も
わりあい個人的なものではなくて
全容としたものです

網羅する要素を
みることはできなくても
事毎にしては、
責任や派生どころに
こころはむくものですが
それよりも
全容に目を観るのがよいです
(そうすると、わりあい
分かることが多いです)

「責める心」は
欲にすぎません

……

神様の視点は
全容のしてんです
愛という方もいます
(言葉にすぎない愛ではなくて)

責める心(欲求)を持ち続ける限り
問われるのは自前です
問われていること
問われ続けてきたことに
気がつくと
たぶん、その欲求と向き合えるとおもいます

……

エネルギー

末世のみだれで
ひとのこころもみだれ

自我にはいま
だれもが透き通りではなく
濁りをもっています

我欲が善性のふりをしたり
善性が欲性のふりをしたりします

……

一つ記しますが
正義のふりをした
我欲はおおいのです
懲らしめてやる、という気持ちは
捨てた方がよいです、無駄ですし
自分のことは自分にしかできません

誰かもそうですし
自分もそうです

ほんらいの正義に敵はいません
敵をこらしめるのは
敵意です

己の弱さをこえようとするとき
あらわれるのが勇気です
ひとのことを悪や敵にみつめるとき
あらわれるのは弱さです

……

しかし
怒りを
悪意に怒る、怒りを
なじる神はおりません

うらみも、かなしみも
怒る神はおりません

つらいのは
おまえだから
てばなせと
はなれよと
願われているだけです

なくせ、とか
こえろ、とか
神々は思われません

人の痛みを知るかたがたに
そんな態度は
とれないものです

ですから、
そうした
怒りを「よくないこと」とする人心も
ほんとうなら
ひとつも、わいたりしません

……

知識ではなく
知恵の実を
うごかしてください

そこに理解という
知恵がともるとき
奇跡はおこりますから

人間が手にした知恵は
弱い力ではありません

……

悪意はほうむられていき
怒りになぐさめがふり
祝福とともに
救いはもたらされます

混迷のなか
世界自体の
エネルギーが
みたれがちになりますから
個人個人の、ちいさな生き物である
人間の、こころが
みだれたり
濁ったり、
間違えたりすることは
もう、しょうがないです

しかしどこかで
自分にもどりたいですね
「自分」の生きたい道を
間違えずに
いきていきたいですね
2018-10-07 12:11:33
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愛に基づくことをしよう



たとえば
ほんとうの正義とか
真心とか
そうしたものも
慈しまれておりますが

天の意はただ
「愛を源に、愛に基づくことを」
それだけでした

わくわくすることをしよう、とか
好きなことをしよう、とか
天の真意を覆い隠すように
偽りの言葉は流されていました

「ワクワク」でも「好きなこと」でもなくて

天から願われていたことは
「愛のこと」でした

そんなふうに
天からの願いは
地につたわるとき
たくさんの歪みをうけ
シンプルな真意が
わかりづらく変形されていたりします

……

愛に基づくことを
されていますか?

ひとが
どれほどかんたんに
ほんとうの愛を
正義や、自我の歪みや
思い込みから
変形させてしまうのか

知っています……

知識は知恵ではないし
知のうえのことは
「そうではないこともある」が
かならず、隠されています

(ですから、
本当のことを知るものは
断言できないことと
ごくわずかな断言できることを
担ってしまうのです)

……

知っていること、
わかったことは
かならず、
何分の一の確率で
「限らない」といえます

それをわからないと
いつまでも、「同じ事を云う」
知の、罠のようなところを
歩くことになります

それは、「そうとは限らない」ことに
気がつかないと
でられない

「そうだという知の上」では
そうではない
「違うこと」や「違うひと」に
心がなくなるから、
愛がもらされないからです

「違うこと」、己の個人性にきづき
多様性へのしんあいが
その檻の鍵となります

……

天は
ただ、愛だけをみつめています
やがて受け取られるのは
個人の思いではなくて
そのひとの
命と、ともに輝く
「愛」です

ことばの愛ではありません
2018-10-01 11:15:42
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圧倒と終焉



神様がおりられると
ようやく、
ゆがんだ宗教や
スピリチュアル界隈などで
云われてきた神様が
掌にあるような方々で
それで、神様というものが
どれほど巨大で
ひとのてにはいらないものなのか、が
わかるのだとおもう

悪意のがわの方々は
いまだに神様を、しらないので
たくさんのことを
しようとしたり
宣ったりしているけれど

思考で把握したり
かわしたり、できるものは
神様ではなくて
人サイズにあるもので

つまり、計画とか
あるいは、知識とかいうのは
なにがしかであっても
それは掌のサイズにすぎない

悪意の終焉は
かれらがたててきた計画や流れを
なにもかも無駄にしながら
おとずれる

……

歓迎したものは
歓迎をあたえられるという
スピリチュアルや
霊能者、ゆがんだ宗教者で
このときにおとずれたものたちを
「歓迎」を「できた」ひとは
わずかだった

かれらが最後に味わうのは
境遇の二極化で

真心か、魔心

ひとつは神様とともに歩み始め
ひとつはエゴ、ナルシシズム(欲)
あるいは、偽りの神もどきをしんじ
真なる神様への否認とともに
はしりはじめる

……

最後にあらわれる獣の姿は
そのものの目が決めるという

たとえば
ナルシシズムだとか
エゴイストだとか
「真なるもの」を見て
そう観たてたものたちには
そういう獣があらわれる

いつわり、まもの、
だまされ、
そう見立てたひとたちには
そういうものが……

……

真なるものたちに
無垢、あるいは
観音をみたひとは
最後にあらわれる獣が
無垢なる観音となるらしい

不思議なことだ

2018-09-26 13:32:33
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目線



文章や、なにかをあらわすとき
誰かに観られること
誰かに、何かを思われることを
望んでいる「もの」はおおいし
望んでいるから、ひっぱられて
ほんとうの表現からはなれているものも多い

その時代が終わるようだ

これからは
誰かに、なにかを、おもわれること
いうなれば
「他人からの目線」への欲求が
わかなくなり
誰しもから、それが減っていくだろう

他人からもたらされるものは
大きいなぁと思うけれど
それをもとめるほど
欲っしても手に入らない
結局は地道な
自己研磨に
そうしたことが
与えられるんだと思う

エネルギーのはなし

求めるものは
自分のもつ器に
あたえられる

上辺ではだめで
自分の、
素体のちから(素のもの)を
たかめ、あげていくしかない

……

人間がもともとの人間体にもどっていく
「欲」……意識の上のかるいものから
苛立ちをわかせる重いものまで
「穢れ」からたちのぼっていたそれが
おわり、ついえていく
2018-09-13 14:32:19
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いろんな人が生きている世界



自分のあたまのなかの
おもいや、かんがえからの
他人しか居ないとき
こうすればいい
ああすればいい
ばかり

結局、自分がすればいいことを
他人に思い浮かべる

いろんな人がいきていて
いろんなことをしていて
いろんな生活があり
価値観があって

喧嘩ひとつとっても
自分がおもうようなことでは
ないことが多い

いろんな人がいきて
いろんな問題を
ひとりひとり解決して
あるいは、つきあいながら
生活してるんだ、と

世界がひろがったとき

私は、わたしの生き方でいいんだし
私の生活を
きちんとすればいいんだと
わかる

いろんな生き方やひとがいることを
頭じゃなくて
たましいが、わかったとき
もしかしたら、
いろんな生き方をしていいんだって
自分にも
許すことができるのかもしれない

多様性は、個人を認めることなんだろう

だれも他人の価値観のうえにはないし
価値観のなかでみつもれば
他人はみえないものだとおもう

感覚で「多様」ということと
「多様のひとり」ということが
ひらけたとき

「個人感覚」の
裁きあいは、
かわるかもしれない

(許しとは少し違う)

そういうもんだと
腑に落ちる感じか
2018-09-05 12:43:38
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関係ないところで世界がまわり、ながれ、うごいている



頭が壊れて
一年か二年ほど
なにも出来ず、動けずにいたころ
携帯を片手にとりだして
ネットを散歩するのが日課だった

ネットでなにかを言う(書く)のにも
それ向きのパワーがいる
その時の私には、それすら立ち上がらなかった
もともと言葉はひどくやりづらい

絵を描いて、寝て、ネットをみて
その繰り返しだった

その時つくづく思ったのが
世界は私には関係ないこと、だ
訳の分からない話かもしれないが
世界にたいして
なにもできない(表現ができない)
ただ
なにも思わず、なにせず
傍観しつづけていると
感じられるかもしれない

有る意味、なにかをつたえたり
なにかを表現したりは
世界と関係することだから
なにかをしているひとは
どこかで、「世界と私は関係している」
かのような錯覚を
もっているんじゃないかな、と思う

誰でもとは限らないが……
ある種の、弱い強いはあっても……

でも実際はたぶん、
世界はひとりひとりには
あまり関係がないんだと思う
それは自分ごとではない
ヨソゴトのあつまりだ

……

その中で覚えたのが
一種の異様な寂しさと
忘失に似たものだった

関係しようとしなければ
関係など、ずっと
ないままなんだ……

人間関係があることは
(たぶんにトラブルや
煩わしさもあるかもしれないけれど)
人間関係が「ない」ところから見れば
ずいぶん。富んで恵まれていることだ

……

その寂しさと忘失のまま
なにも出来ないので
結局は携帯をまた観ることになる

頭が壊れた、と、書いたが
もうすこしいえば
頭の損傷に近かったのかもしれない

思考、行動するための思考がうごかない
損傷した手足がうごかないように
なにも動かなかった

……

忘失からみていた世界は
私に関係なくすすみ
私に関係なくながれ、
たくさんのひとが
「他人のことにとやかく言う」を繰り返し
「自分のことをとやかく出す」を繰り返し
さまざまを織りなして
流れ続けていた

「停滞している」ことは
ひとつもなかった
一人一人からすれば
色々停滞があるように見えただろうが
先に、先に、と
すべては進んでいたし
そのため、いまは、
前とは違う。すべてが

私は岩のように停滞していた
だから、じわじわとでも
ほかの人たちが
先に進んでいたのがみえた

……

そのとき、ふと
世界が全く関係ないことは
ずいぶん、助かるなぁと思った

まえも、どこかで、かいたが

私が苦しんで泣いているとき
悩んで落ちているとき
どこかで笑って幸せな人がいることは
幸福なことだ

この世が、苦しみの一色ではない
ひかりはあちらだと、
わかるから

世界が関係ない、って
どんなに私が個人の闇におちても
よろこびのひとや
進む人がいるということだ

ひとは見つめているほうに
意志を持ってすすんでる

幸福が、遠くにでも
みてとれることは
幸いだ

……今も私は
世界とは、わりと距離をおいて
自分のことをしている
あの時、感じたことは
文章にすると
上のような短文になるが
ずいぶん、ためになった

私は、私が不幸なとき
そうしたことと関係のない世界があることが、
幸せだった

ひとが幸福で
楽しんでいたことが
救いになった

何かの役にたちたければ
それだけでいいんだと思う
2018-08-14 11:57:15
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なぜ人のことをとやかく思ったり、言ったりするんだろう(他人への好奇心について)



ひさしぶりに自分の意見を綴ってみる
ずいぶん、スピリチュアルだの
なにかだの
そんな話ばかりだった

人は他人への好奇心を抱えている
人間が群生の生物である限り

(つまり個人よりも
群集であるほうが
人間は生きやすい)

その好奇心は
己や、己の群集への
防衛本能からきているんだと思う

他人のことを
とやかく言ったり
とやかく思ったりすることで
たくさんのことは動いている

「他人のことより自分のことをしろ」というのは
たぶん、生き方として
防衛本能を超えたところにあって
とても正しいんだけれど

「人のことをとやかく言ったり思ったりする」は
失ってしまったら
なんだか寂しいような気がする

それはたぶん
思いやりや優しさや
経験からくるシンパシー(共感)の
少し手前の「振動」なんだと
私は思う

他人に自分のことを
とやかくいわれたり思われたりする
それはとても煩わしい半分
いわば「整調作用」に似ているなぁとも思う

人間が群生生物であるかぎり
この「とやかく感情がうごく」
整調作用……関係の
バランスをととのえる動きは
なくならないと思う

群れ……

奇妙なはなしだけれど
「他人にたいしてとやかく思う」ひとは
わりあい、優しさや
ほんとうの協調性が育っていく気がする

「攻撃的な批判」や「否定する気持ち」を
たやすくぶつける人は
その逆で……

つまり「他人のこと」など
おもっていなくて
「自分の概念」が律動していたりする

奇妙なはなし
「自分の概念の律動」を
他人を思うことや正義と誤解する方々は
(そうしたことがない方々は
いつも、それに不可解そうだけれど)
その律動を思いやりと思いこむので
「優しいことをしている」と
感覚が、そう認識していたりする

ほんとうに他人に優しいことって
他人ではないものの頭の中には
閃きがたいけどね……

他人のことを、とやかく思う人は
「ほんとうに、人に、優しいこと」を、
感覚が誤認しない

そうして、人間関係や
ひととの関わり方(心理の広さや能力)に
差がでている

たぶん、とやかく思うこと、は
ひとつの経験や「揉まれたこと」になって
人間のどこかに
沈殿していくからだろう……

とやかく思ったって
他人は他人で
自分の思いの上にいる訳じゃ
ない

自分の思いのうえの「他人」と
現実の「他人」の
はずれと、あたりの
いきかいで
もまれこまれて
成長するものが
あるんだろう

……

思いをあらわすまえに
とやかく思う、心の動きを
たまに、静かに味わいたくなる

それはたぶん
「他人が好きだ」と
そんなところから
わきたっている
2018-08-13 11:56:48
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愛と想像



思いやりににているかもしれません
愛と想像力がむすびつくと
創造力があらわれます、創造性であり
それこそが、人間本来の
生産性です

思いやりのないこと
愛ではなく、
自我(自己保身、自己憐憫、あるいは自己慢心)と
欲がむすびつくと
創造力とは真逆の力が具現します

ひとを、おとしめ、とざし
くるしめ、そぎおとし
ふうじこめるちからです……

己の「まいた種」は
どこかの段階で
かならず、己の手で
収穫し、知ることになります……

人を己事で踏みにじるのか

人と己をおもい
己のちからを与えるのか
これは、たんに
胸底になにがあって
それをまいたのか、に
すぎないようです

……

だれでも、己のしたことは
後になればわかるのでしょう

そのときは正義でも
「愛のないこと」は
よく、人をそぎ落としています

これが、生々しい時は
どうしてもわからない
自分は正しいから、という
「もちまえの理由」しかわからなくなる

他人の傷が目に見てとれるようになって
ようやく
自分の正しさが幻想にすぎないことも
見えてくるのかもしれません

……

ここからさき
「想像」の欠落した思想と
「想像」と「愛」が
むすびついて、
創造性につながっていく思想と
まっぷたつに分かれてくるかもしれません

あなたがどちらにいるのかは
簡単に判別できます
「人の心が思えるかどうか」
それだけです

「貴方しかいない世界」
……貴方のことしか見えない世界に
いま、いるのなら
私は「他人のいる世界」へ向かうことを
おすすめします
2018-07-30 08:10:57
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やってみるとわかることと、愛が祝福であること



「言うは易く行うは難し」といいますが
やってみると「言葉の軽さ」がわかりますよ

愛は「祝福」であり
呪いではありません。

「いう」よりも「行う」ほうがいいです
「行ううちに人生で培われたこと」ができてきます
言葉にするなら
そちらをする方がいいです
うんと、良いことになります

つまり畑もないのに畑を語ると
畑を騙る感じなるのよ



「あたま」はしょせん頭ですよ

でも頭はいつもそれを忘れる
覚えておきたいですね



ところで「愛は祝福です」
呪いではないです

真の愛があるなら
それは祝福になります

命あるところ愛は芽吹きます

理解できない愛の姿にあったとき
なぜでしょうね
理解しない側の、人間性が露呈します

そうして
呪いのように見なし(邪推といいますね)
ことば、呪いのような敵意、腐敗をぶつける人もいますが
ひるまない方がいいですね
ひるまない方がいいです



ほんとうなんですよ
愛が一番強いです
ひるまずに、愛した方がいいですね



「あたま」の上のことは捨てるといいですね
いいわけとごまかしにすぎません

だから「人の言い訳とごまかし」に
泡立つんでしょう。「そこにいてどうするんですか?」



ところで「想像力」と「創造性」の力は
人が思うより強いです

「愛」を表現してみませんか
ほかの想いは、過多しているし
ありすぎでしょう。ほかの想いは。


「愛」と「想像力」で「創造」してみませんか
2018-07-29 14:18:38
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夏の納涼、怖いものへの注意事項



いちおう、「怖いものを観たがる心理」の
一番奥底には
人間であれば
神様や見えないことへの畏怖と
不思議なことへの敬愛(求める心)が
隠れています

ですので、そうしたことへの
積極的な否定はできないのですが

昨今はホラースポットや
怖いもの、怖いはなし(website含む)に
ラグナロクの影響で
ひどく禍々しい触りがでていたりします



私個人としては
廃墟など、うわさのホラースポットは
決して行かれない方がよいと
ご注意したいところです

前々から訪れる人の不謹慎さ
(霊体とはいえ(※))
人の苦しみを娯楽にし、
みたがるようなところに
不謹慎で攻撃的なエネルギー体がひかれあい
マイナスダークゾーンに陥っているところは
多数ありました

ただ、そうした
おそろしいことに
興味を持つな、とは
おもいません

※さまよう霊は
さまようだけの理由があり
それは生命の苦しみです、
みえない、わからないから
かれらが恐ろしいもだと思うだけで
ほんらいは彼らも人間であったもので
ただ、苦しみからさまよっている

ほんとうに見えるなら
かれらの抱えている「苦痛」と
だからこそ、さまよっていることを
理解されるでしょう……

しかし、あかるい娯楽の気持ちは
かれらをなぐさめたり
ばかばかしさに気づかせたりする
両刃の剣のようなところがあり

敬意と礼節は
もってほしいところではありますが



もしもそうしたものにふれるなら
あるいは、表現をするなら
私は敬意と礼節は
忘れないでいただきたいと思います
(できればホラースポットには行かないでください)

かれらは、
悪魔やマイナスのエネルギー体とことなり
ただ、苦しみにいまだに苦しむ
もともとは
わたしたちと同じ人間にすぎません

だれも他人にはなれません
人の人生やくるしみは
わかるようで、他人には
おしはかることしか
できないものです

わかっていないことさえ
わからずにいる、無理解は、どうしても
人間として、の部分を
落とし、なくしてしまいがちになる

なにがしかの存在を
揶揄し、踏みにじることは
見えないものであれ
見えるものであれ
人間として、恥ずかしいことです……



もしも、畏怖や恐怖をあじわいたいなら
(まさに肝試しですが)
明神様に頼んでありますから
「明神さま、怖い思いをさせてください」と
空に、あるいは神社で願われてください

夜には味わえます
(朝には解放されましょう)
2018-07-13 17:51:40
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